2021.05.24| PASSIONE “情熱”

’002 1993年12月。25歳で1号店オープン 〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


新潟県内に2店舗、東京都青山や神奈川県に2店舗のイタリア料理店を展開するクオルス・リストランテ。始まりは、代表である高波利幸が25歳の時だった。上越市を出発点に関東へ、さらには本場ローマへ。新潟発イタリア料理店の軌跡を、代表自身が振り返る。それは一軒の料理店の物語、地方発一企業の挑戦体験だ。

1993年12月。25歳で1号店オープン

 

1号店のオープニングキャスト8名。後列右端が著者。25歳。

「絶対有言実行」。これは、当時も今も変わらない私の信条、クレドです。

「これまで上越になかった本物のイタリア料理店をやります」。

宣伝した後には必ず「イタリア人もいるよ」と付け加えていました。実のところ、その時は、いなかったのですが、オープン3ケ月前にイタリアへ飛び、3か月限定という約束で連れてきました。

「スタッフ」ではなく「キャスト」。今でも私たちは、一緒に働く仲間を、ディズニーと同様に「キャスト」とよんでいます。レストランはお客さまが主役の舞台で、私たちは食のエンターテナーであると考えているからです。

1号店のキャストは、テスト営業を手伝ってもらった彼と街を歩き、目ぼしい人に片っ端から声をかけました。スタート時には私を含めて総勢8名。ホテルで働いていた女性、喫茶店で働いていた女性、生命保険会社の女性から「うちの息子どう?」と紹介された男性。前の職場の同僚で、たまたま実家に戻ってきていた人など、多彩な顔ぶれでした。

レストランはビルの2階。なぜ、ビルにしようと思ったのかというと、まず、商業ビルというものへの憧れがありました。佇まいだけで、都会の雰囲気です。次に、美容院や洋服店、靴店などに入ってもらえば、女性が集まり、レストランにも入りやすくなると考えました。もちろんテナントからの家賃収入があれば、レストランの経営も安定します。

驚いたのは、土地を用意してくれた父でしょう。平屋の小さなレストランくらいのつもりがビルになって、借金は億単位に跳ね上がったのですから。そもそも、私がお金を借りられるはずなどなく、父の営んでいた蕎麦屋を担保にしてもらいました。「やるならやってみろ」。そんな気持ちだったのでしょう。その時は、父は、何も言いませんでした。

 

新潟県上越市の 1 号店。夢を“形”にできたという意味から、ビル名をイタリア語で“形= FORMA(フォルマ)”と名付けた。3階建てのビルの 2F にレストランが入った。


初めて、一人でイタリアへ

「店にはイタリア人もいるよ」と言った私の中には、モデルがありました。当時、流行っていた東京のイタリア料理店がそうだったのです。何とかできないかと思っていたら、偶然の縁から、道が開けました。

東京で修業をしていた頃、国道246号線を白いボルシェが走っているのを見ました。ボディには「クリアリーカナディアン」のロゴ。ラズベリーやフランボワーズフレーバーのカナダのミネラルウォーターです。ポルシェは、この飲料を宣伝するために走っていたのです。

その頃、働いていたレストランで、この飲料を扱ってみたいと思っていた私は、直接、電話をしました。

「この間、クルマを見かけましたが、レストランのドリンクメニューにぜひ入れたいと思っています。ついては、あのポルシェを店内に飾っていただいて、プロモーションをやりませんか」

すると、トントン拍子に話はまとまり、輸入元の社長と親しくなりました。そのうち、イタリアからの食品の輸入を始めたと聞き、今度は「イタリア人のコックを雇いたいので、誰か紹介してほしい」とお願いしました。つないでくれたのが、ロンバルディア州で農業協同組合の組合長。社長はすぐさま「高波という男が行くから、セッティングしてください」と話をつけてくれたのです。

イタリアに到着すると、組合長がランチアで迎えに来てくれていました。まだイタリア語ができなかった私のために、通訳の女性も連れてきてくれています。そして候補の男性と引き合わせてもらい、3カ月という約束で、連れ帰りました。

初めての一人海外旅行でした。内心ドキドキ、ハラハラの連続でしたが、一番驚いたのは上越のレストランのキャストたちに違いありません。「イタリア人に会ってくる」と言って出かけたと思ったら、イタリア人と帰ってきたのですから。

ちなみにこのイタリア人、アンドレア・トノットリさんはすごくいい青年で、当時、私と同い年の25歳でした。今でも、お付き合いがあります。

次回「’003| 父との衝突」へつづく 

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