2021.05.27| PASSIONE “情熱”

‘003 父との衝突 〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

父との衝突

私のために土地を用意し、想定外の大きな借金まで背負ってくれた父。しかし、開店準備が進むにつれて、意見が衝突するようになりました。

蕎麦打ち職人として、というより一人の商売人として、父にも哲学がありました。当然、先輩として、ためになるアドバイスも持っていたはずですが、私がそれを素直に聞き入れられませんでした。若気の至りというやつです。

「自分には自分のやり方がある」と突っ張っていた私。父と大喧嘩になったのは、ビルの竣工式の前日でした。父としては自分の事業みたいなものですから、当然のように知り合いをたくさん呼ぶわけです。その人たちに失礼があってはいけないと、「明日はどんなメニューがあるんだ」と聞いてきました。「日本酒はあるのか、焼酎はあるのか」と。

これまで地元にはなかったイタリア料理店ですから、あるわけありません。「ない」と答えると「用意しなければダメだ」と父。キャストの前で猛烈にやり合って、結局、日本酒だけ用意することにしました。

父は待っていたんだと思います。新しいレストランの相談、せめて報告。18歳で家を出て、戻ってきたと思ったら「開業だ」と走り回り、突然、イタリアに出かける。上越にいるのに、わざわざ賃貸マンションを借りて一人暮らし。開業すれば開業したで「田舎のおじちゃん、おばちゃんの来るようなレストランじゃない」と言う。「息子はいったい、何を考えているんだ」。そう思っていたでしょう。でも、手助けしたいという親心も捨てられない。

ジレンマを抱え、毎日、怒る父のそばにいた母は、その頃、心配で眠れなかったそうです。それでも、二人して時々、車でわざわざレストランの前を通り、様子を見に来ていたのだと、後になって聞きました。

その後、2軒目、3軒目を出す時にも、私は父に出店計画の話をしに行きました。父は決して、頭ごなしに駄目だと言いませんでした。

 

和気あいあいの1号店厨房

 


経営者はマルチプレーヤーだ

両親の心配をよそに、その頃の私はイケイケでした。

寄せ集めのキャストに店は任せられない。いや、自分のやりたいようにやりたくて、何でも一人でやりました。東京での修業時代、人に使われてきた反動や悔しく歯がゆい思いが積もり積もって、それが原動力にもなっていました。

まず、オープンしてすぐのクリスマスには、同じ頃、近くに完成したワシントンホテルに交渉して、タイアップ企画を立ち上げました。ディナーとホテル宿泊をセットにした特別プランです。テスト営業の時に、同じビルの1階にあった開業準備室の室長と仲良くなった縁がありました。

広告も自分で作りました。バンドを入れた生演奏も企画。残念だったのは、イタリアを感じさせるカンツォーネではなく、予算の都合でサルサのバンドになってしまったこと。相当ミスマッチで、これにはお客さんも引いていました。

ただ、必要な音響や照明の設備、その手配も全て自分でやりました。初めてのことでしたが、東京にいた時、イベントの手伝いをしたことがあったので、何が必要か分かっていたのです。

汐留の大きなライブハウスに、ロシアからロケットを持ってきて飾ったり、マイケル・ジャクソンのライブをやったり。そういうイベントに少し関わっていたのが役に立ちました。面白そうだと思ったら、飲食に関係なく、首を突っ込む。とにかく遊ぶ。食べる、飲む。そうして得たものや縁を活かして、やりたいことをレストランという箱の中に持ってきたのがあの頃です。

 


受けなかったら、すぐ変える

1号店はどんなコンセプトでやるのか。私の中にはAとB、2つのプランがありました。

Aプランはガチガチのイタリア料理店。メニューは文字だけで、前菜、パスタ、ピッツァ、メインディッシュが並び、コースもある。東京の人気イタリア料理店をそのまま持ってくるというイメージです。

Bプランは、カジュアル志向。メニューもイラスト入りで分かりやすく、大きな皿の料理を取り分けて食べるというスタイルでした。

最初の3カ月はAプランを実行しました。しかし、受けませんでした。文字だけのメニューを見て、食べたいものを注文できるほど、イタリア料理を分かっている人はいなかったのです。

東京風のフランクな接客サービスも、馴染みませんでした。お客様への距離が近すぎて、馴れ馴れしいと感じられてしまったのです。中には「ナンパされている」と勘違いする女性までいました。

一番、問題だったのは、「食べさせ方」の提案が弱かったこと。ピッツァやパスタ目的で来ている方に対して、前菜から肉・魚料理まで充実していて、コースもあるというラインナップでは、迷うだけ。「こうやって食べると楽しいですよ」と、こちらからお客様に近づいてなかったのです。

切り替えたBプランでは、前菜からメインまでをそれぞれ、1.5人前くらいのボリュームで提供しました。取り分けて食べるのが前提で、いろいろな料理が楽しめるのが売り。これは受けました。

もともと、このやり方は、チェーン展開しているカプリチョーザがやっていました。当時、世田谷区の環七沿いにあったパッパガッロという人気店も同じスタイルで、私自身、20代そこそこで初めて触れて、すごくいいなと思っていました。

1号店では、東京で修業したことや本物志向がどこまで上越で通用するのか、試したかった。しかし一方で「田舎でやるならBプランだろう」という気持ちもどこかにありました。落としどころを持っていたことで、変わり身早く、次に行けたのだと思います。

次回「004 2軒目のレストラン」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

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