2022.01.18| PASSIONE “情熱”

‘007 もっと、イタリアの空気感を!〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

もっと、イタリアの空気感を!

南青山店のオープンは決まりましたが、新潟から出てきたイタリア料理店が東京のど真ん中で成功するためには、上越や新潟とはケタ違いの競争に勝ち抜かなければなりません。そのために考えたのは「もっともっと、イタリアの空気感を醸す」ということでした。

まず、イタリア人のピッツァ職人を雇うことにしました。 今度はイタリアに行くまでもなく、紹介してもらうことができました。ある企業がイタリアから連れてきたものの、暇でぶらぶらしていたピッツァ職人がいたのです。働いてもらうには、ビザの取得や住居の世話が必要でしたが、すべて私がやりました。 幸い、とても腕のいい職人で、南青山店がオープンする3カ月前に来てもらえたので、開店までは新潟店で、若いキャストを指導してもらいました。彼らがびっくりしたことは言うまでもありません。いきなりイタリア人がやってきて、片言の日本語でピッツァの作り方を教えてくれるのですから。彼は新潟店では、神様みたいな存在になりました。 

 

リピーターが9割を占めた南青山店。1・2階の2フロア

ところがその彼は、1998年に南青山店がオープンした翌年の夏、バカンスでイタリアに帰国すると、約束した日に戻ってきませんでした。頼りにしていたのに裏切られたという気持ちで頭に来てしまい、すぐに解雇して、アパートも解約してしまいました。実は、彼は遅れて日本に戻ってきたのです。でも、私が怒ってしまっていたのでどうしようもなく、その後、いろいろな店を転々としたようです。 イタリア人っぽいといえばイタリア人っぽい行動で、今から思うとこちらも少々、短気だったかもしれません。

イタリアの空気感がどのくらい再現できたのかは分かりませんが、南青山店は開店早々、人気店になりました。オープン直後に、FMラジオのJ‐Waveに紹介され、雑誌『BRUTUS(ブルータス)』に記事が載ったことも大きかったでしょう。いつも予約一杯で、慢性的に人手不足。 出入りが激しく、「明日はだれが来なくなるんだ ?」と緊迫していたことを覚えています。

お客さまは、狙っていた通り、9割がリピーターでした。南青山とはいえ、駅から離れた不便な場所だったので、新規客を当てにしては、経営が不安定になります。近隣にお住いの方々が足繁く通ってくださったおかげで、順調でした。

開店前のできごとで忘れられないのが、新潟人脈で店舗をつくったことです。お金がないという懐事情もありました。新潟の設計士に内装設計を依頼し、電気、ガス、水道、設備、家具、塗装といった職人たちもすべて、新潟から来てもらいました。といっても泊まるところがないので、1カ月くらいは近所のカプセルホテル暮らしです。 部材が足りないとなれば、新潟のホームセンターまで関越高速を飛ばして往復したり。そんな苦労の末にできた店は、いわば新潟の人たちの努力の結晶です。そして、本当にすごく安く上げてくれました。東京の業者に頼んでいたら、 時間も料金も2倍はかかったでしょう。現場では東京の事情を知らないので、道路を占有するのも工事をするのも、警察に怒られ、消防に怒られ、いろいろありました。 それでも「俺は東京の南青山でレストランをつくったんだぞ」なんて、ご家族や親戚に自慢できるネタになっていればいいと思います。 

 


キャストとの衝突 、悪戦苦闘

南青山店は7名体制で始めました。新潟から連れてきた1人と、石川県から呼んできたSさん、私の3人がコアメンバーで、あとは東京でかき集めた人たちです。ところが、中心メンバー以外がまったく定着しません。 特に飲食店の経験がある人だと、こちらのやり方や考え方を理解できないようでした。みんな年齢も近く、私も含め、我慢が足りなかったのでしょう。

「そんなこと言われたら、もう続けられません。辞めさせてもらいます」
「ああそうかい、辞めろ辞めろ、とっとと出ていけ!」

どの人も、面接の時には「イチから覚えるつもりで」と言うのですが、すぐにメッキが剥げるというか何というか。ただ、考えてみればこちらも、どういう人に来てほしいか、深く考えていませんでした。つまり、ちゃんと人を選べていなかったわけです。 とにもかくにも現実問題、これからディナーで満席という時に、ちょっと注意したらスタッフがいなくなってしまうというのは恐ろしい事態です。 

「え?  今日は予約が一杯入っているのに、どうするんですか?」

当然、残っているキャストにしわ寄せがいきます。さらにリピーターのお客さまに限って、わがままを言われます。

「席が一杯なら、作ればいいじゃないか。あの辺に椅子とテーブルを出してよ」

断る言葉にも苦慮していると、そんな時に限って「これから行く」というこれまたコアなリピーターからの電話。遠くにいらっしゃるなら、時間をずらしてもらうこともできますが「今、下にいるんだけど」と言われれば、どうにもなりません。「すみません。満席なんです。本当に申し訳ありません」と謝るわけですが、怒って「じゃあ、もう来ない」と言われると、これが実に切ない。たとえ冗談だとしても、胸に突き刺さりました。

 

雑誌やFMなどマスコミの注目が南青山店の人気に拍車をかけた

昼も忙しい、夜も忙しい。息を抜く暇もなかったある朝、突然、体の右半分が動かなくなりました。這いつくばって整形外科に行ったら、薬を処方してくれ「安静にしていなさい」と。翌日になっても 激痛が治まらないので、違う整形外科に行くと「ああ、これは入院だ」と。入院などしている時間はないと言ったら、コルセットを付けられ、帰してもらいましたが、変わらず右半身は痛くて動きません。 

原因は、前日にサウナで受けたマッサージのようでした。しかし3日目。またしても救世主が現れました。私の症状を恩師が聞きつけ、「いい整形外科医がいる」と紹介してくれたのです。クリニックの壁には、有名な野球選手や芸能人の写真が貼ってありました。どれも注射されている写真。変わった整形外科だと思っているうちに先生が出てきて、「じゃ、これ打つよ」と、通称「ニンニク注射」を打ってくれました。 先生は「明日の朝は仕事に行けるよ」と確約してくれた通り、4日目には店に出ることができました。

次回「008 繁盛店をステップアップ」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

SHARE THIS ARTICLE

 記事一覧へもどる