2021.11.09| PASSIONE “情熱”

‘006 東京挑戦へ、つのる思い 〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

東京挑戦へ、つのる思い

やがて、私の中で新たなアイデアが生まれました。次にレストランをやるなら、違う場所、違う中身でやろうー。茨の道だとは分かっていました。自分で成し得た成功パターンを捨てて、未知の土地に打って出るのですから。でも、敢えて困難な道を選ぶ方が、挑戦しがいがあります。 

選んだ場所は東京。上越の本店でオープン当初、挑んで失敗したAプラン、つまり前菜、パスタ、ピッツァ、メインディッシュが並び、コースも提供するというスタイルを、東京でやろうと考えました。多様なお客さまがいて、イタリア料理のライバル店がたくさんある東京でうまくいけば、それこそ本当の成功ではないか。 考えた戦略は、「Aプランのメニューを8掛けの価格で提供する」というものでした。 東京にはAプランのレストランを出すライバル店がたくさんあるので、同じ内容を庶民的な価格で提供すれば、勝機はあると思ったのです。 

ただし、またしても人の問題です。泉さんは新潟の繁盛店があるので、僕が行くしかありません。そこで、泉さんに新潟と上越のレストランを頼んで東京へ。とはいえ、東京にずっといるわけにはいかず、またしても昔のツテを頼り、同じイタリア料理店で修業していSさんという人に手伝ってもらうことにしました。

Sさんが、そのイタリア料理店にいたのは、泉さんと同時期。私は一緒に働いていませんが、同じレストランにいたとい う気安さがありました。 Sさんは、当時、郷里の石川県の小松市に帰っていて、ビジネスホ テルの厨房で働いていました。そこで、雪の北陸自動車道を走って小松に行きました。

「もう1 回、東京で勝負しようよ」

Sさんには奥さんと2人の子どもがいました。不安がる彼を押し切るために、「僕が 面倒を見る」と言って、彼のアパートを駒沢あたりに手配し、強引に連れてきました。東京進出という夢のために、彼と彼の家族の人生を変えてしまったわけですが、当時はそこに思いを寄せる余裕もありませんでした。

 


捨てる神あれば、拾う神あり 

東京挑戦は決まったものの、どこにレストランを出すかはまだ決まっていませんでした。とりあえず、付き合いのあった不動産屋さんに声をかけたところ、現在、イル・パチョッコーネ・カゼイフィーチョのある南青山6丁目の物件を紹介してくれました。

「面白い物件あるよ。形は変だけど、1フロアー 20坪で3階建て。どうかな?」
「いいですね。家賃は?」
「 90万円くらいですかね」

とても魅力的な物件でしたが、さすがに東京。新潟店の家賃が20万円、上越市の本店が40万円でしたから、果たして90万円も払ってやっていけるのだろうかと、大いなる不安が渦巻きました。 ほかの物件を見せてもらいましたが、やはりこの場所が一番です。そこで、付き合いのあったビールメーカーの店舗開発の方に意見を聞くと

「やめておいたほうがいいですよ、絶対無理」

しかし、こちらは出店しようと腹を決めています。別のビールメーカーの店舗開発部の方にも聞いてみました。すると

「やり方によっては、うまくいくかも」

幸いなことに、周辺の環境も変わってきました。それまで、飲食店が1軒もなかったのに、近くに海外で名を馳せていた「NOBU東京」がオープン (2006年閉店)、向かいにはグローバルダイニングの「モンスーンカフェ」がオープン(2010年閉店)。これは間違いなく追い風です。

「ここでやればうまくいく」

予感がひたひたと湧いてきました。 

 

1998年、東京都港区南青山6丁目にオープンした東京1号店

東京に進出するなら、以前お世話になった人に挨拶をしておかなければなりません。まず、私と泉さん、坂本さんの3人がお世話になったイタリア料理店のオーナーに、一升瓶をぶら下げて挨拶に行きました。しかし、オーナーは会ってくれません。 実はずいぶん前に怒らせてしまい、「お前とは縁を切る」と宣言されていたのです。結婚の招待状も、封を切らないまま送り返されていました。まだ怒っている可能性が高かったのですが、それでも「高波が東京でレストランを開く」ということをひと言お伝えしておきたかったのです。

驚いたことに、オフィスで待っている間にオーナーの机の上を何気なく見ると、 僕たちがオープンする予定の物件資料が、机の上にあるではありませんか。何という偶然かと、このオーナーとの縁の深さに感じ入りました。 

彼を怒らせたのは、上越のレストランをオープンした翌年、1995年のことです。新潟県の新井市(現・妙高市)にヨーロッパ調のテイストでスキーリゾートを作る、ついては、ゴンドラの麓に作る飲食店を手伝ってほしいというオファーが、オーナーの元に届いたのです。新井は上越市と近いので、オーナーは「私のところにいた高波という男が近くでレストランをやっているので、彼に手伝わせます」と話を振ってくれました。私はといえば、レストランオープンから一段落していたこともあり、やる気満々でした。ただ、全体の予算が折り合わず、オーナーは降りることに。 業界の慣習としては、親分が話を降りれば、子分も従わなければなりませせん。ただ当時の私は、いろいろやってみたかったし、何よりお金が欲しかった。 そこで 「オーナーは降りましたが、僕は地元なのでお手伝いしますよ」と言ってしまったのです。後に、それがオーナーの知るところとなり、大激怒させたという次第です。

「俺が話を降りたのに、何でお前が勝手なことをするんだ。お前とはもう縁を切る」

そして「俺は高波とは縁を切った。お前たちが付き合うのは勝手だが、もし付き合ったら同罪だ」 と宣言していました。

 

1995年、オーナーを怒らせてしまう原因となった新井リゾート

多くの先輩たちが僕と距離を置くようになっていた中で、泉さんや坂本さんは協力してくれました。頭が下がりました。ただ、そのことはオーナーの耳にも入っているだろうから、仁義を通そうと出かけて行ったのです。結局、会うことは叶いませんでしたが、3人でやることには変わりませんでした。

困っては人を頼り、助けてもらう、その連続。 しかし、ピンチになるとどこからか救世主が現れて助けてくれるのも確かでした。神頼みをしているつもりはありませんし、「誰かが助けてくれる」と慢心しているつもりもないのですが、どうやらこれは、その後も続く、僕の人生の特徴のようです。 

次回「007 イタリアの空気感 」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

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