2022.05.30| PASSIONE “情熱”

‘009 南青山の成功に引っ張られて〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

南青山の成功に引っ張られて

南青山店の成功は、上越と新潟の2軒とはケタ違いの影響をもたらしました。まず新潟伊勢丹さんから、次いで森ビルさんから、出店のオファーが舞い込んだのです。新潟伊勢丹さんは店内のレストランとして、森ビルさんは、あの六本木ヒルズ内のレストランとしてでした。

伊勢丹さんは、新潟伊勢丹の中で南青山店(現「イル・パチョッコーネ・カゼイフィーチョ」)と同じものをやってほしいという話でしたが、ただ、新潟市内には既に「ラ・ペントラッチャ」というレストランがあります。わざわざ伊勢丹に出店するのに、同じようなレストランではつまらないと、 東京でそのころ流行っていたレストランを参考に、泉さんが中心となってメニューを開発し、創作イタリア料理店をつくりました。

森ビルさんのお話はもっと規模が大きくて「3億円出すから、君たちのできる最高のレストランをやってくれ」という内容です。つまり、開店資金を出してもらい、毎月の売上げから返済していくという方法で、計算上では月の売上が3000万円あれば、10%の300万円は確実に返済できるということになります。

僕たちは次々と舞い込む景気のいい話に、完全に舞い上がってしまいました。私たちにとっての「バブル」です。私、泉さん、高橋さんの3人は、 それまで温めていたプランを全部テーブルの上に出して、どんなレストランをやればいいかを考えました。しかし、なかなか結論は出ない。そこで、泉さんと二人でニュー ヨークに視察に行くことにしました。

イタリアでなくニューヨークを選んだのは、 当時、人気を博していた「デリカテッセン」に興味があったからです。 私たちは、忘れもしない、あの9・11 のテロ事件が起きる1カ月前に到着。今でこそ有名な、しかし上陸前の2001年には、日本ではまったくと言っていいほど知られていなかったセレブ御用達の「DEAN & DELUCA(ディーン・アンド・デルーカ)」をはじめ、いろいろなデリカテッセンを見て回りました。デリカテッセンとは、いわば総菜屋です。サンドイッチや持ち帰り用の西洋総菜を売っていて、中には椅子とテーブルを並べてカジュアルレストランを併設しているところもありました。 

この視察旅行で私たちは、デリカテッセンとイタリアンレストランを融合させた店を作ろうと決めました。森ビルさんにプレゼンテーションしたところ、「なかなかいいじゃないか」と前向きの反応をもらいました。 そのまま六本木ヒルズに展開していたら、もしかすると事態は変わっ ていたかもしれません。しかし私は、この新業態をまずは新潟で試してみようと考え、繁盛していた新潟店を移転させた上で、リニューアルオープンさせたのです。結論から言うと、これが大失敗で、それまで苦しみながらも右肩上がりに持っていった事業を、破滅の危機にさらすことになりました。

 

新潟伊勢丹店内にあった「ス・ミズーラ」(2001年開業)

 


人生最大の不覚。〝テリ&レストラン〟

1995年にオープンした新潟店は、繁盛していましたが、狭さがネックでした。「もっと広ければ」と思っていたところ、耳寄りな情報が飛び込んできました。隣にあった大型スポーツ店が撤退して、大きなフロアが空くというのです。もし本当なら、悲願の拡大です。そして、噂は本当でした。

現地を見に行くと、出店予定の六本木ヒルズの物件と似たような形の空間でした。そこで私に、変なアイデアがひらめいてしまうのです。「六本木ヒルズの予行演習をやってみよう」。今にして思えば、悪魔のささやきでした。 

新しいデリカテッセン&イタリアンレストラン「デリタリア」には、大きな投資をしました。立ち上げ資金として約1億円。しかし2001年、いざ開店してみたらまったくの閑古鳥(かんこどり)でした。赤字は月に250万円。何とか挽回しようと、泉さんといろいろな手を考えますが、客足は伸びません。万策尽きて、高橋さんを東京から呼び寄せることになりました。

 

1億円の投資でスタートしたデリカテッセン&イタリアンレストラン「デリタリア」。(2001年開業)

高橋さんと私は、新潟に住み込んで立て直しを図りました。デリカテッセンなので、ローストチキンだとかロール寿司だとか、思いつくままにメニューを考えました。高橋さんもいろいろやってくれましたが、いつまで経ってもレストランは中途半端なまま。そもそも新潟に、デリとイタリアンの融合形をと、考えたこと自体が間違いだったのでしょう。

予行演習がさんざんな結果に終わったため、六本木ヒルズへの出店は諦めざるを得なくなりました。毎月の赤字に歯止めをかけるため、「デリタリア」そのものも閉めることに。この時点で累積の赤字と負債を合わせた金額は3億円に達していました。 ところが、レストランを閉める時に、片腕だった泉さんが辞めてしまいます。しかも彼の後を追って、キャストが次々と辞めていきます。泣きっ面に蜂とはまさにこのことで、 わがクオルスグループは、金銭面でも、人員面でも崩壊寸前となってしまいました。 

追い打ちをかけるように、新潟伊勢丹店のキャスト5名のうち、3人が引き抜かれてしまいます。デリ&レストランの雑務が残っていたので、新潟にはちょくちょく出かけていたのですが、まったく気がつかないうちに話が進行していたようです。 クリスマスが終わって、何となくほっとしている時に、新潟伊勢丹店のマネージャー から電話がありました。

 「社長、大変です。みんなが荷物をまとめています。辞めちゃうみたいです」
「何? すぐ行くから待たせておいて」

上越から新潟まで、クルマを飛ばしました。

「どういうこと?」
「実は、ほかから声をかけていただいたので、3人でそちらに行きます」

結局、引き留めることができず、3人は辞めていきました。新潟伊勢丹店は明日から 2人です。クリスマスが終わったとはいえ、百貨店は元旦から3日までの三が日がかき入れ時。年末年始を2人で回すのはとうてい無理だと、東京に戻っていた高橋さんに連絡しました。彼はすぐに来てくれました。 さらに、上越のレストランが三が日は休みだったので、こちらも総出で手伝いに来てもらい、新潟伊勢丹店のピンチはひとまず免れました。しかし、いつまでも高橋さんを引き止めるわけにはいきません。取引先の肉屋に紹介してもらった料理人を入れて、何とか体制を正常化することができました。

さて、予行演習の段階で失敗してしまったデリカテッセン&イタリアンレストランですが、もし、新潟でテストせずにいきなり六本木ヒルズでオープンしていたらどうなっていたでしょうか。実は今でも、その「たられば」が頭をよぎります。六本木ヒルズでは成功したかもしれない。あるいは、デパ地下のようなテイクアウトだけの業態にしていたら? いやいや、六本木でやっていたら、新潟の何倍もの負債を抱えて倒産していたかもしれない。何とも想像がつきません。

はっきりしているのは、この時の失敗が、人生最大のピンチだったということです。負債総額が3億円に達した時には「もうバンザイしようかな」とも考えましたが、倒産・ 自己破産の道を選ばずに踏み止まったのは、両親や家族、先祖に申し訳ないという気持ちがあったからです。ちょうど息子が生まれて「こいつのために頑張らないと」という気持ちも湧いてきました。

それにしても、銀行の態度の豹変には驚きました。ついこの前までは、ニコニコしていたのに、破綻懸念先になった途端に罵声(ばせい)を浴びせてくるのです。「へえ、こんなこと言うのか。こんなことするのか」。今思えば、貴重な経験でした。こちらとしては平身低頭。ひたすら「やります、やりますから」と繰り返すしかなく、何とか、返済条件を見直していただきました。

次回「010 「再出発への覚悟 」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

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