2022.06.18| PASSIONE “情熱”

‘010 再出発への覚悟〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

再出発への覚悟

たくさんいたキャストは連鎖的に辞めていき、閉めたデリ&レストランのキャストも、ほとんどいなくなりました。 

莫大な借金を返済していくためには、残った3軒のレストランで、しっかり稼いでいくしかありません。残って一緒にやってくれるというメンバーを前に、「こんなざまで申し訳ない。もう一度やるけれど、力を貸してくれないか」と言いました。悔しさと切なさ、感謝の気持ちから、思わず涙が出ました。すると「やります」「頑張りましょう」と交互に私の肩を叩いてくれました。あの時のメンバーには、今でも感謝の念でいっぱいです。

ただ、残った人たちだけで3軒のレストランを回していくには不安がありました。そこで思い切って、辞めていった泉さんに声をかけてみました。 

「今、何をしてるんですか?」
「パチンコ屋にくっついている飲食店で、店長みたいなことをやってます」
「もう一度、戻って一緒にやってくれませんか?」
「考えてみます」

すぐにはいい返事をもらえなかったのですが、共通の恩師であり、学生時代からのメンターでもある方が「高波を助けてやってくれ」と説得してくれたこともあり、やがて、「分かりました。もう一度一緒にやりましょう」 と泉さんが戻ってきてくれました。

新潟・泉、東京・高橋、上越・高波という三本柱の体制の復活です。残る問題は、借金の返済。地道に3軒のレストランで返していくという計画を銀行に了承してもらいましたが、完済するのは僕が70歳になった時。しかし、やるしかないと腹を括りました。「イタリア食堂の親爺になるぞ」。それが再出発への覚悟です。 

 


川崎への出店。V字回復!

泉さんが戻ってきて、新しい体制で何とかやっていこうと模索しているところに、神奈川県川崎市に出店しないかという話が舞い込んできました。川崎駅に近い大型商業施設「ラ・チッタデッラ」。 日本初のシネマコンプレックス「チネチッタ」や大型ライブホールの先駆けだった「クラブチッタ」を核とする商業施設で、1987年にチネチッタ、2002年にラ・チッタデッラがオープンしていました。 

「話が来たのはいいけれど、人もいないしお金もないし‥」

最初はあまり、気乗りがしませんでした。ラ・チッタデッラの集客力はどうなんだろうという懸念があったからです。実は、ラ・チッタデッラがオープンした当時、勇んで視察に行っていました。「映画と音楽を核にイタリアの街を再現」という触れ込みに、イタリア好きの血が騒いだのです。当時はにぎわっていましたが、出店のオファーをいただいたのはオープンの3年後。改めて行ってみると、静かでした。2004年は、川崎駅直結の大型商業施設「ラゾーナ川崎プラザ」もオープンすると聞いていたので、「大丈夫かな?」と。建物はきれいで、施設も素晴らしいのですが、不安を感じました。

ラ・チッタデッラさんからは2回、オファーをいただきました。その都度、丁重にお断りしましたが、3回目の申し入れがあった時、私の中で風向きが変わりました。条件面で、こちらの条件を飲んでもらえたことも大きな後押しになりました。 実らなかった「六本木ヒルズ出店計画」でしたが、森ビルさんから学んだ手法が、確実に根を下ろしていました。

「お申し出はすごくありがたいのですが、今、うちの店には経済的な余力がありません。例えば、そちらの資金でレストランをつくってもらうわけにはいかないでしょうか? その費用を家賃に上乗せして返済するという手法でしたら、出店できます」 

 

2007年に開業した川崎店は、V 字回復の原動力となった

財政は火の車ながら、川崎出店が実現できた裏には、こんな取引がありました。「経験がものを言う」とはまさにこのことでしょう。

「さあ、みんなでまた頑張っていこう」。気持ちは前向きになりましたが、やはり、どうにも人手不足です。「もしかして、また?」と思われるかもしれませんが、そうです。 また昔のイタリア料理店つながりで、人を呼んでくることにしました。

例によって昔のレストランの先輩に「誰かいませんか?」と聞いて、名前の挙がったのが和田正博さんでした。ただ、 和田さんは既にレストランを任されていると聞いていたので、和田さんからだれかを紹介してもらおうと考えました。 訪ねてお話しすると「1人いますよ」と。勇んで会いに行きましたが、残念ながらその方とは折り合いがつきませんでした。和田さんのところに結果を報告に行った席上で、思い切って聞いてみました。

「まさか和田さん、あなたがうちに来てもらうというわけにはいきませんよね」
「いいですよ、僕、行きます」
「なあんだ、回り道しちゃった」

和田さんに川崎店を仕切ってもらうことになりました。 面白いのは、和田さんが昔の高橋さんにそっくりだったことです。彼も「超」の付く職人気質で、 高橋さんと僕と3人でレストランの方針を話し合っているうちに「そんなの、やりたくありません」とか「こうじゃなきゃ、いやです」と頑固に突っ張り始めました。「まるで数年前の高橋さんみたいだね」と笑い、高橋さんに「どう?和田さんとうまくやっていける?」と聞いてみると「大丈夫です」と。こうして川崎店の体制が固まり、 またしても私たちは、和田さんの料理や和田さんの考え方を、全店で取り入れていくことにしました。

ほどなくして、クオルスグループ全体が、和田さんカラーに染められていきました。この方式は、最初こそ大変ですが、結果的にはうまくいきます。なぜかと言えば、個性が違っていても、目指す共通点があるからです。同じところを向いて努力すれば、強力なチームができます。

川崎店はオープンしていきなり、成功を収めました。「爆発した」がぴったり でした。「南青山店をそのまま持っていく」のがコンセプトではありましたが、ただ、それだけでは寂しい、何か新しいエッセンスが欲しい、となり、和田さんのアイデアを取り入れました。彼にはトスカーナ料理の経験があったので、 その特徴である「炭火焼き」を生かすことに。 調理場の一角に炭焼き場を作って、肉や魚、野菜を焼いて提供すると、大繁盛です。喜び、驚き。何より、「これだ!」と信じるイタリア料理が、大勢の人々に受け入れられたことがうれしかった。

 

キアンティ川崎店の「炭焼き場」

改めて、私たちが目指すイタリア料理とは、何なのかと考えてみると、「ガヤガヤ系イタリアン」なんだろうと思います。イタリアっぽい雰囲気の中で、庶民的な値段でうまいものを提供する。それが、川崎で評価されたわけです。川崎店はオープンしてからずっと、客足が衰えたことはありません。おかげで事業はV字回復を遂げました。70歳までかかると覚悟していた借金の返済も、ずいぶん楽になりました。

 

2010年、新潟市にオープンした「アッラ・ヴェッキア・ペントラッチャ」のレセプションパーティーに勢揃いした各店舗の店主。左から山本さん、高橋さん、泉さん、著者、和田さん

次回「011 「ほかにはない「商品力」を求めて」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

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