2022.05.26| PASSIONE “情熱”

‘008 繁盛店をステップアップ〜新潟のイタリア料理店がローマに店を出した!〜


1993年創業。100年続くイタリア料理店を目ざして、新潟、都内、イタリアへと道を開いてきたクオルス・リストランテ。現在、レストランのほかに、伝統的バルサミコ酢樽をモデナに所有し、都内にモッツアレラチーズ工房、上越にクラフトビール醸造所を展開。イタリア食文化に感銘を受けたことで始まった挑戦は、これからも続く。

繁盛店をステップアップ

悪戦苦闘しているうちに、東京の生活に疲れてしまいました。新潟と上越のレストランは泉さんに任せてはいますが、そちらも気になります。そもそも、結婚3年目で単身赴任していて、精神的に安らぎもありません。心配して妻が東京に来てくれましたが、2人でワンルームの小さな部屋というのも気詰まりです。 半身が動かなくなったのをきっかけに、上越に帰ることにしました。

「東京のレストランをだれかに任せよう」。そう決めましたが、Sさんだけでは不安です。そこでまたしても、昔、お世話になったイタリア料理店つながりで、Iさんという人に声をかけました。すると、手伝ってくれるというではありませんか。IさんとSさんは一緒に仕事をした時期もあったので、 コンビを組むのは打ってつけです。2人で頑張ってくださいと言って、上越に戻りました。 

ところがIさんは、純粋にイタリア料理を志している人ではなかったのです。 Sさんは、強くものを言えない方なので、南青山のレストランはIさんのカラーに染められ、水商売っぽい雰囲気になってしまいました。「早くだれかに」と焦ったために、根本的に目指すものが違う人に委ねてしまったのです。そのうちSさんも影響されてしまい、南青山店はコントロール不能になってしまいました。

私は泉さんに相談しました。泉さんはIさんと一緒に仕事をしたことがあり、内心あまりよく思っていなかったそうです。そこで今度は私が新潟にいて、泉さんに東京を見てもらうことにしました。社長代理的な立場で、SさんやIさんよりも高い立場で南青山店に入ってもらったのです。 しかし、コントロールを取り戻すことはできませんでした。

「ダメですね」 。泉さんの報告を聞いて、Iさんに辞めてもらう決断ができました。すると、Sさんも辞めると言い出すではありませんか。石川県から家族ともども呼んできて、ここまで一緒にやってきた人です。必死で引き留めましたが、何度説得しても「やりたいことがある」の一点張り。仕方なく、時間稼ぎをしながら、またまた人探しです。 見つかったのは、高橋一弘さんという腕のいい料理人でした。彼は、私や泉さんが昔、修業したイタリア料理店のつながりでしたが、そこで働いていたわけではありません。彼を可愛がっていた先輩が、私たちのかつての同僚という関係です。「抜群の料理人がいる」 と紹介され、一緒にやってもらうことになりました。その段階で、引き留めていたSさんに辞めてもいいと伝え、南青山店のトップが入れ替わりました。 

高橋さんはアシスタントを2人連れて来たので、南青山店はいきなり、高橋さんカラーに塗り替えられました。高橋さんは、職人気質の頑固さを持っている人で、「他人の料理は作りたくない。自分の料理を作りたい」と主張して曲げません。 

「気持ちはわかるけど、ちょっと待ってよ」。泉さんと説得しましたが、聞いてはくれません。 仕方がないので、泉さんと相談した結果、クオルスのグループ全店で、彼のノウハウ、彼の料理を受け入れることにしました。かつて泉さんが入ってきた時と同じ、クオルス得意の進化形です。これで、みんな一丸となって前に進むことができるようになりました。実際、高橋さんの料理のレベルは半端ではありませんでした。 振り返ってみると、一時期の迷走はありましたが、”雨降って地固まる”とはあのことで、私たちは、一段高いステージに上ることができたわけです。 

 

南青山店の第二期をつくった高橋一弘シェフ

 


一枚岩になった南青山店

上越市と新潟市、東京の南青山と、離れたところにレストランがあったため、いわゆる「店長会議」は簡単に開くことができませんでした。その代わり、だれかが別の店に赴いて、必要な話を伝達するという体制を、2年くらい続けました。

南青山店は高橋さんとアシスタントの2名をコアメンバーにしましたが、彼らとうまくやっていけない既存のキャストが、ぽつぽつと出てきました。欠員が出れば、補充しなければなりません。高橋さんは「誰もいらないですよ。3人いれば大丈夫です」 と心強いことを言ってくれましたが、南青山店は1、2階 のレストラン。物理的に無理でした。泉さんと二人で、「気持ちはわかるけど、現実を考えたら」 と高橋さんに繰り返し、語りかけました。

その結果、少しずつですが、高橋さんの考えが変わっていきました。マネジメントへの意識が芽生えたわけです。一見、頑固一徹な高橋さんの中に、自分の考えと違うものを受け入れる余地があったということでしょう。 

一方では、彼の代になって、売上げが3割ダウンしたという事実もありました。 その数字を見て彼は「人が大事だ」ということに気づいたわけです。高橋さんは、料理人的な考えから経営者的な考えにどんどん変わっていきました。おかげで徐々に売上げが復活。「料理さえうまければ、お客さまは来る」 という考えでは生き残れないということに、気づいてくれたた結果の、売上回復でした。 

おいしいということは、レストランでは要(かなめ)です。しかし、それだけではダメ。サービスも、料理に見合ったものでなければなりません。そのために、新しく入った若い子は、最初の1、 2年はサービス担当がきちんとフォローし、一緒にやっていこうという体制を作ることが必要です。 それを高橋さんに少しずつ理解してもらい、レストランも少しずつ盛り上がっていきました。

結局、高橋さんに合わない人は辞めていき、合う人だけが残ることになりましたが、彼は男気があり、頼られやすいタイプなので、結果としていい仲間が残りました。粘り強く話し合った時間が実り、南青山店が一枚岩になりました。ここまでに、2年かかりました。

こうしてクオルスは、高橋さん、泉さん、私の3本柱の時代を迎えることになります。性格を比較すると、よく似ていています。3人で自分たちのレストランのこと、将来のことを話すのはとても楽しい時間でした。1人が素晴らしいアイデアを出して、残る2人が「それ、いいね」と一喜一憂する。今でも思い出すとワクワクした気持ちがよみがえる、とても大切なひとときでした。

 

満員の店内でリゾットをサーブするキャスト

次回「009 「南青山のレストランがもたらす影響力」へつづく

 

高波利幸 Toshiyuki Takanami

1968年、新潟県上越市生まれ。高校卒業後「服部栄養専門学校」に入学し、料理の勉強を開始する。在学中、ヨーロッパに研修でイタリアへ行き、イタリアの食と文化、そして人に大きく感銘を受ける。卒業後、イタリアレストランで修行を開始。7年間東京で暮らしたのち、新潟に帰郷。1993年4月、地元上越市にイタリアレストランをオープン。現在イタリア料理店3店舗、モッツアレラチーズ工房、クラフトビール醸造所を展開。その他飲食店コンサルティング、プロデュースも手掛ける。

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